なぜコミュニティに參加する(しない)か

私はフォーラムのような場所が苦手でしたが、参加する以上は(特に文章収集は自分のみならず、他のボランティアにも影響を及ぼします)、人々の意見を聞き、そして自分の意見を披露してみなければならないと思いました。

これに限るかな。


Microsoftコミュニティには参加してないんだけど - wanichanの日記に觸發されてこの記事を書いた。Microsoft關聯ならユーザーも多いし、檢索率も高いだらうから、wanichan's worldみたいな個人サイトでもヒットするだらうけど、Common Voiceはそもそも知られてゐない。公式のフォーラムガイドも日本語未對應。となると、離脫してしまふボランティアが多いんぢやないか、と。

Mozilla(プロジェクト主催者)のスタッフや、プロジェクトに關心のある人たちと直接關はり合へるのも良い。上記に擧げたやうに、ボランティアで成立つてゐるプロジェクトだから、私の獨斷でやるわけにはいかない事情もある。

日本語話者スピーカーが少ないので、私としては眼に留る事は一向に構はない。寧ろ宣傳する爲にリンクも張つたし、このサイトを檢索エンジンに登錄しもした。自分が實際にどれ程貢獻できたか、つてのは、自づと結果(と周圍)が敎へてくれるだらうから、氣にしない。私が切つ掛けでボランティアが增えてくれれば言ふ事無し。いや、マジで、私一人ぢや文章センテンスが承認されないんすよ! プロジェクトの發展が見込めない。――無論、それならそれで、私は質問するなり情報を纏めるなりして、側面から支援してくけどね。


單純に、解らないから聞いた」結果として今がある、といふ感じ。私だつて、できれば一人で默々とやつてゐたかつた。

だから、コミュニティへの參加は、餘儀無くしてゐる(檢索に引つ掛りもせず、情報を知つてゐる人々が特定の場所、特定の言語にしかゐなかつたとしたら?)。プロジェクトは、まだまだ發展途上なのだ。他――ブログでもSNSでも――から參加しても良いが、意見が直接Mozillaに屆く事を考へると、やはりフォーラムで披露した方が良いなとは思ふ。5ちゃんねるにはFirefoxのスレがあるが、スタッフが見てゐる事を實感した今からすれば、個々の不滿や意見は「Mozillaに直接傳へれば良いのに」と思つてしまふ。“(Mozillaでは)手に負へない部分を、外部のコミュニティが補つてゐる”とも言へるが。

“メーカー”の提供するコミュニティに關はるとは、プロジェクトの根幹に關はる事を意味する。自分の疑問とひに、どれだけの重みを感じてゐるか、といふ事だ。であればこそ、自分のメディアで公開する、といふ人もゐるだらうが。


Irvinの取組みGitHub - irvin/cc0-sentences)を見てチャットや揭示板、GitHubの導入を考へてみたが、私には無理だと感じる。サイトの管理で手一杯だ。ログはWayback Machineで取れるし、ファイルを外部に保存する必要性を感じない――勿論、「手輕に文章を提供できる場所」はあつても良いが。その爲のツールがSentence Collectorだもんなあ。

さういふ自分に向かない方面は、できる人に任せる事にする。


では逆に、參加しない理由とは何なのか。私は基本的に一匹狼だ。それは必然である。と言ふのも、參加する理由が無いからだ。「リンクする」といふWebの本質に從ひ、私は特定の集團やシステムに依存する必要を持たず、自らのメディアで情報を發信、管理、維持する。

關はらない、關はりを持ちたくないコミュニティも存在する。これは特に最近意識させられた。だから私は「宣傳」を原稿單位でなく、サイト單位でしたのだ。揭示板や投稿サイトは――ユーザーの質も大きいが――最も我慢ならなかつたのは、前時代的な、いや前時代的ですらないシステムの不自由さにある(プレーンテキストで文章を公開する事――リンクを拒絶したHTMLは、Webの死を意味する)。所詮システム、されどシステム。宣傳の踏臺とは言へ、コンテンツを投入する事は、そのコミュニティに參加、贊同するといふ事である。同意を示すだけの價値があるか――さう考へた時、答へは否だつた。だから、土壇場で行動を變へた。コミュニティを囘避したのだ。


私は所屬する場所の一つはあつても良いと考へてゐるが、未だに「ぴん」と來る場所は無い。探し方も解らない。

俯瞰してみれば、このサイトも、私自身も、宇宙、地球、人類……から連なる、多種多樣な、枝分れしたコミュニティ、及び構成の一つなのだ。


コミュニティの參加に悅びを感じる事ができるかどうかは、その中でやる事があるかに懸つてゐると思ふ。役割と使命感。行動が形になる實感。だから、主題があるコミュニティは强い。逆に、なコミュニティは弱い。